大法山 天愼寺の歴史

江戸時代、当地は大山(おおやま)と呼ばれ、峠には豊前の国(小笠原藩)と筑前の国(黒田藩)の国境の砦があり、わずかに小道が通じていました。

嘉永年間(1850年代)、豊前の猪膝村に染物を生業とする紺屋の元四郎(もとしろう)という人が住んでいました。元四郎は妻と娘と三人で生活していましたが、ある日最愛の娘が流行病で死んでしまいました。世の無常を感じた元四郎は、家や妻を捨てて魂の救いを求め、諸国を巡り寺々を訪ねて教えを乞い、京都にたどり着きました。
そこで法華経に出会い出家して僧となり、周天院日輝(しゅうてんいんにっき)と僧名を授かり修行を続けました。諸国を巡り健脚であった日輝は本山より使い番を命ぜられ、本山と各地の寺院の連絡係として全国を巡っていましたが、たまたま故郷の近くに赴き、家や妻はどうなったかと尋ねると既に妻は死に家も朽ちていました。

当地には未だ法華経・御題目をお唱えする者は一人も無く、意を決して当地に留まり大山(大法山:だいほうざん)に籠もり修行を続け、山中の大岩に法華経を刻みました。今も山中八ヶ所に残っています。

また、自分が子供を失った経験から、子供の守り神と言われている鬼子母神を彫刻しお祀りしました。


鬼子母神の御利益と日輝上人の法力は次第に高まり、九州はもとより中国・四国地方より参詣(さんけい)する者もあり、次第に信者が増えてきました。

江戸末期、国内では長州戦争が始まり、親藩である小倉藩は隣接する長州藩との戦いに備えて藩内の勤皇思想分子を取り締まり、彦山の多数の山伏(山中で修行をする修験道の道者)を捉えて処刑しました。
日輝上人の高名を妬む人々は、これ幸いと藩庁に山中で謀反を企てていると訴え、日輝上人は捕らえられて小倉の牢に繋がれました。牢内でも日夜御題目を唱へ続け、安政4年(1857年)9月18日に牢死されました。

人々は日蓮聖人の故事に習い、日輝上人を「今日蓮」(いまにちれん)と呼びその死を悼みました。

明治になり神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐をも乗り越え、地元の方々を中心に鬼子母神堂を作り、信仰を続けました。

昭和12年、地元の中村武文氏を中心に大法山振興会が結成され、日輝上人の外孫である西村小次郎氏の援助により本堂をはじめ諸堂が完成しました。

鬼子母神の御利益は広く伝わり、地区によっては子供が生まれると先ずは大法山で無事成長を祈願すると言うほどでした。時と共に一万坪の境内も整備され新本堂は椅子席バリアフリーで、どなたでも気楽に参拝できる様になりました。